故河合隼雄氏の言葉。「僕は、実はサイコパスなんや」京都大学名誉教授 文化省長官

故河合隼雄氏の言葉。「僕は、実はサイコパスなんや」血液型A型 京都大学名誉教授 文化省長官


私が河合先生をリスペクト⇒尊敬する理由は、天皇・道家思想・ヒミコについて深く研究されている点です。


米国スイスのユング研究所に学び、ユング研究所が東洋思想マンダラに詳しいことに驚いて、ご自身も東洋思想に詳しい心理学者です。


ご自身で「自称サイコパス」なせいか、アクを肯定したり、ちょっと変だと私は思います。
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故河合隼雄氏の言葉。「僕は、実はサイコパスなんや」




「僕は、実はサイコパスなんや」と言われたのです。「サイコパス」というのは、どういう訳がいいでしょうね、「精神異常者」と言ってもいいんでしょうか。・ ・ ・略・ ・ ・だから、最後まで臨床をお放しにならなかったのは、自分自身をもそこで治療しておられたとも、私は考えているのですけどね。」


これは、『日本における分析心理学』のP.80、日本ユング心理学会の川戸圓氏が故河合隼雄氏について語っている部分です。


どの程度をもって「異常」というのかはここではおいておくことにして、河合氏が自分が「異常」であること、それを自分で「治療」しているという自覚はあったんですね。


なるほど、と思います。


俺もそうです。ただ「サイコパス」と言えるほど異常ではないとも思っていますが。写真や絵や音楽によって治療しているという自覚は今はあります。前は自覚はなく、結果として治療していたんだとわかったということです。


精神の安定といったらいいか、安寧といったらいいか、求めているものはそんなところですが、その方法としての写真であり、絵であり、音楽であり、といった感じでしょうか。俺も芸術療法を理論ではなくて、実践から入ったということになるのでしょう。


それと前も書きましたが、「棚田」や「原風景」といったものに、人はどうしてひかれ、癒されるのか、ということも心理学的なアプローチから探ってみたいと思うようになりました。





慶応大学名誉教授 山崎行太郎先生のファンなのですが。先生をリスペクト⇒尊敬する理由は、先生の助言をきっかけにして「小沢一郎応援ブログ」を作りインターネットブログを始めた記憶がキノウのことのようです。


ロシアの応援話で困惑します。


大政治学者で、ちょっとヒダリよりで、


津田塾大学名誉教授で、奥様が乳がんになり、教え子の津田塾大学の女子学生がミナ乳がんになって、政治物理学者から生物物理学者に転身されたヒダリヨリの三石先生に似ています。
先生をリスペクト⇒尊敬する理由は、実践して、身の回りの乳がんの女性たちを、80歳異常まで、長生きさせたことでしょう。


製薬資本のクスリメーカーがキライなのですが、健康食品を中心とする本を沢山出版しています。


私が三石先生にプレゼントした「ジョセフフーシェ」という本を乳がんの女性中心のバスツアーで、輪読してもらいました。「一人ひとり」に1ページづつ読んでもらったそうです。




下記の文章で、


・・・・・精神錯乱・・・・・や・・・・・狂っている政治家・・・・・の話題が


少し見え隠れしているので。


もっと・・・・・頭のおかしい・・・・・大統領の話題が


増えると良いと思います。


僕は、カタナや詩吟が趣味です。



なにしろサイコパスなかま病は、「ご自分は正しい正義感と思い続ける」「ストーカーを続ける」「ギャクサツを続ける」ことが特徴です。


唯一例外は、A型河合速雄文化省トップが、亡くなる直前に「ワシはサイコパスじゃ」と言って認めた強大心理学者が存在するだけです。


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https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14260533794


https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13242907708


https://5483.muragon.com/entry/7.html


おれおれ詐欺の犯人って、血液型何型がおおいんですかね?








回答(


ねこじゃらしさん


2022/4/19 10:09


A型でしょう。


日本人の人口比で最も多いですから。




質問者


1


回答ありがとうございます!












村上春樹、河合隼雄に会いにいく /










いわばふたりとも完璧に「上がった」人。「もはやもがく必要がない」。親しみやすそうと思わせながら存分に権威を享受している。


と、皮肉な目線も持ってしまうが、結構示唆的な対談。
というか春樹論はかなりこれがベースになる。
「春樹自身による春樹認識」として。


源氏物語、漱石、大江健三郎、村上龍、と日本文学の流れを着実に意識している。
アフォリズム、デタッチメント、コミットメント、と自身を細分化するなんて、暗中模索の作家では不可能で、かなり意識的に描き続けてきた作家だ(それが石原千秋いわく自己神話化)。
「ねじまき鳥クロニクル」は受け入れられるの時間がかかる、というアーティスト的な言い方をしているが、自身で深めていくのに時間がかかる、自分はこのテーマを続けていくという表面でもあるだろう。
小説のよさは、対応性の遅さと、情報量の少なさと、手工業的しんどさ(あるいは個人的営為)だ、という。まさにそのとおりとひざを打つ。



デタッチメントの確立の先に深い意味でのアタッチメントがある。完全なデタッチメントを目指そうとしても人間はそこまで強くない。かといってアタッチメントの割合を高くしていって人に依存するようになると長続きしない。羊4部作やノルウェイの森で語られ続けてきたテーマだけに共感するものがあった。


2020/2/14
『ねじまき鳥クロニクル』を書き上げた村上春樹が
心理学者の河合隼雄と対談したもの


とても観念的な内容なのでじっくり読まないと理解できない
さらにお互いが補足したいことをフットノートに上下段に加えているので
とても読みづらいというか 
読みたいのだけど対談内容を集中して読みたいのにそちらも気になる


『ねじまき鳥クロニクル』について書かれてあるところが多く
再読したくなってしまった
2巻で完結とするか3巻で完結とするか読者に委ねている


前書きが村上春樹
後書きが河合隼雄


2014/5/5
癒しで検索するとこの本が上の方に出てきます。


村上「河合さんと向かい合っていろんな話をしていると、頭の中のむずむずがほぐれていくような不思議な優しい感覚があった。「癒し」というと大げさかもしれないけれど、息がすっと抜けた。」
★単なる治癒ではない、「癒し」がここに見られる。


村上:ノンフィクションを書くために「人の話をいっぱい聞くことによって自分がある意味で癒されたいという感覚もあるのです」・・・★これもそう


河合:源氏物語を書いたのは「紫式部だって、やっぱり自分を癒すためでしょう」
河合:「そういう人(患者)にお会いすることによって、僕の病も癒されているということがたいへんおおいと思います」
★河合隼雄はほとんど治癒の意味で「癒し」を使っている。


村上「小説を書くことによって自分が癒されるということはあるわけですが、それはもちろん同時に読者を癒すものでなくてはならない」
村上「読者のある部分を、多かれ少なかれ治癒するということ」が「うまくいけば、その作用がもう一度作者にフィードバックしてくるという感覚があります。それによってまた自分が励まされ癒されるという感覚があります。おおくの作家はそれを『手応え』と呼んでいます」
★と言いながら、最後には以下のようにも言っている。


村上「僕が自分の小説に求めているのは、誰かを癒すことでもなく、誰かに癒されることでもない」・・・?
村上:小説を書くことは「『癒し』を目的とする作業ではない。癒しとはつまり心を鎮めることであり、僕が小説を通してやりたいと思っていいるのは、人々の心を公正に喚起することなのだ」
・・・・???
★一体全体どっちなんだと言いたくなる。小説は作者も読者も癒すが、それだけではない、もっと遠くの目的があるのだということかな。


――――――――――――
中井久夫(精神科医)「創造と癒し序説」『アリアドネからの糸』所収
作家にとって「創造が癒しであるとして、その治癒像がどうなるかという問題である」
「文体獲得によって初めて創作行為は癒しとなり得ると考える」
「創作活動が結果的に破壊あるいは癒しをもたらす」
★定義は見あたらないが、・・・面白そうな人だ。


2020/1/21
今から25年前の対談だけど十分面白く読める。
印象に残ったのは、河合さんが、映画を見ても批評ということが出来ない、主人公はあの時ああやったらよかったなとかそういうことしか浮かばないんですと言われた所。
心理療法家の方に分析めいたことは失礼だけど、この人はとても強く人に感情移入する性質を持っておられたのだと思った。


2019/9/27
村上春樹氏と心理学者である河合隼雄氏との対談。村上氏自身のコミットメントが強く生じたオウム事件や阪神大震災まもない時期、名作『ねじまき鳥クロニクル』を書き上げた時期ということもあり、談話内容はなかなかに興味深い。おふたりの話は高度で非常に観念的であり哲学的でもあるので、読者側で反芻して咀嚼する必要があるがおふたりの思考は深いところで繋がりあっているのがよくわかる。箱庭療法に対する日米の違いのエピソード(言語的左脳的な米と、非言語的右脳的な日)は、文学や心理など目に見えない「魂」といった類を扱う者らの文化論として示唆に富む。


特に関心を惹かれたのは村上氏のアメリカでの大学講義の話であった。『ねじまき鳥クロニクル』の見解を「一読者としての見解」として紹介すると、アメリカでは「お前が作者なんだから作者の意図だろう」と突っ込まれるのに対して、日本だとすんなり受け入れられる。村上氏らしいスタンスだが、解釈が難しい作品だけに、私もやっぱり後者の気分(そもそも解釈する必要があるのかという意見も日本ならあるかもしれない)。


後書きが河合隼雄氏なのも面白い。


2008/3/27
読書生活で僕とわりと縁のある両者。
この本からは、心理学の奥深さと
村上春樹氏の小説に対する姿勢が窺える。
特に同氏が、my favoriteな「ねじまき鳥クロニクル」を
書いた直後だったらしく、その話が多い。
「自分でも何がなんだがよくわからない」と感じながらあの作品を書いた村上氏。
それに対して、「物語が自分を超えないと誰も惹きつけられない」と言う河合氏。
こんなやりとり、マジ壷でした。


2022/3/22
結婚して幸せになるなんて、そんな馬鹿な話があるか。結婚とは共に苦しむこと。「井戸掘り」をすること。それを、こんなに面白いことはない、という。


2021/3/16
[このレビューにはネタバレが含まれます]


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2020/11/7
言語で分析する方法は、下手をすると、傷を深くするときがある、と河合隼雄が話していて、逆に言語化することで、意識してなかったらことに気付くことで傷が深くなるのか、と思った。
伝えるのが苦手なのに辛いことがあると頑張って何を悩んでるのか言語化しようとしてたけど、無理に言いたくないことは言わなくていいって言ってくれてる気がして気持ちが少し楽になった。


2021/9/14
両者ともにアメリカに在住経験があるからか、考え方がかなり似ていると思った。村上春樹の独特な文学観と、河合隼雄の臨床心理学がうまく調和していて、日本社会の根底にある諸問題を深く考察している。ちょくちょく日本と欧米の比較も入っていたところも興味深かった。


対談とは関係ないが、対談文の下にそれぞれのコメントも記載されているが、場所的に読みづらい。


2017/10/12
もう二十年近く前の対談で、話題にのぼっているのは阪神大震災とオウムの地下鉄サリン事件。でも本質的な議論は時が過ぎても色褪せない刺激を持つことを再確認。とりわけ本書の最後にとりあげられる暴力性の問題は、2017年の現在、改めて問い直されなければならないのではないだろうか。


2011/8/31
村上春樹さんの本を読むようになったのはかなり大人になってからですが、その世界観に学生時代学んでいた事(社会学)が重なりあう気がしていました。
河合隼雄さんとの対談の中で、まさにそれらが語られていたし、この方が小説を書かれるモチベーションの部分が、子どもの頃好きだった吉本ばななさんとも重なり、後に吉本さん自身も村上春樹ファンだと知り、とても納得がいきました。
河合隼雄さんは、その後、吉本ばななさんとも対談されています。


2011/10/29
[このレビューにはネタバレが含まれます]


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2011/4/5
今、だからこそ読んでほしい。


ねじまき鳥クロニクルのことについて多くの記述があったので、
まずはそっちを読んでから全部読もうと思います。


途中まで読んだけど、かなり面白いです。
対話形式なのでスルスルと、
まるで村上さんと河合さんと3人で一つの部屋にいるみたいに
読めます。


特にコミットメントとデタッチメントの話が興味深かった。


引きこもりながらネットばかりやってるなんて若者が急増している今は
デタッチメントでありながらコミットを求めてやまないという矛盾の中にあるのかな。


とか、
あぁ、3人で語れたらどんなに楽しいだろう!
と思いました。笑


河合さんの、
なんでも『裏返し』というのは、その元のものとほとんど変わりはありません。
て言葉にもハッとさせられました。


読み終わったら少し何かが変わってそう。
そんな本です。


2011/12/13
ちょうど、ねじまきクロニクルを書き終わった後くらいの対談。村上春樹がニューヨークに住んでいたとき、河合隼雄をたずねたらしい。ほぼ編集なしむき出しの対談とのことである。深い話がたくさんあった。でも、対談集って難しい。結構読み終わると大部分忘れている。文に起こされていたとしても、会話って忘れやすいものなのかもしれない。その中でも印象に残っていたのは、欧米人と日本人との言葉に対する認識の違い。徹底的に言語化する欧米に対してあいまいさや言葉にできない何かを持っている日本人。とかく、欧米的なものを是としがちな昨今にあってあいまいさの肯定は力強かった。


2011/12/23
村上春樹と河合隼雄の、この風通しの良い感じ。明晰な知性と、人生をきちんと生きてきたひとの持つ寛容さ。ほんとうに大好き。


自衛隊と平和憲法の矛盾についての河合先生のお言葉はもう、目からうろこ。あらかじめ矛盾をはらんだ存在としての人間を肯定し、ものの見方を問い直す姿勢に、加藤典洋の「敗戦後論」を読んでいて感じたもやもやがすっと消えた。
矛盾をはらんだ存在としての人間、つまりひとは誤り得ることがほとんど運命づけられているという認識。
日本の戦後について、60年代の学生運動についてのお話で、本質的な暴力性という話が出てきます。正しいことをしている、正しいことを成すために暴力を用いるのだ、という考えは単純であり、思想を超えた本質的な暴力性への認識がなければうまくいかない。わたしたちは自らの中の暴力性を考慮にいれて行動すべきである、ということ。自覚が大切なんだなあと思いました。自分自身をできるだけ正しく認識するための努力を怠ってはいけない。


このお二人のお話は、物語の効力であったり、一見するとリアルさに欠けるような議題でも、なんというかリアルなんですね。それはこの二人がきちんと現実を、ノンフィクションを生きたうえでフィクションを捉えているからだと思います。


で、耳が痛いなあと思ったことがふたつ。


・生きた人間でないものにエロス(求めること)を向けることは一概に良い悪いと判断出来ることではなく、結局はその人がどういう生き方をしていくかという問題である。ただ、自分が何をしているか、自分のしていることがだれに害を与えるかについて常に考えておくべき。個人の責任の問題として。
・苦痛の無い正しさに意味はない。苦痛の引き受け方。何はともあれまず行動、ではなく、どうすればその正しさを自分自身のものとして身につけられるか考えなければならない。


わたしはこのお二人の言葉を読んでいると背筋が伸びるんです。気を張るという意味ではなく、人生にゆるく寄り添いながら、自分の道を探す。誠実さと正しさを持つべき場所をしっかり持つ。そんなことを思います。


2022/5/9
村上春樹も河合隼雄も何冊か本を読んで知っているつもりだったが、この対談ではテーマが次々と繋がりながら広がっている。分かったような分からないような。


2022/3/7
物語も箱庭療法も人間の内から湧き上がってくるものに力があるんだ思った。村上春樹さんの作品のファンタジーは、頭でつくった「つくりばなし」ではなく、「自分がほんとうに井戸に入って壁を抜けるほどの集中力や体力」で、「壁抜け」をしているから、「体が入った」作品なんだと、納得いった。


2020/7/14
いくつか興味深い点について振り返っていく


<コミットメントとデタッチメントについて>


コミットメント(献身、かかわり)とそのマイナス方向の性質としてのデタッチメントは、日常における全ての出来事(人間関係、仕事、趣味)についてかなり重要な意味がある。その関わりの深さで人生のシェイプが決まるよな、とも思う。


元来人はアウトプットしなくては生きていけないと思うし、コミットメントとはアウトプットという概念の1つ下の階層にあたるという意味でも、かなり重要度が高いよなと思う。


<箱庭療法について>


河合隼雄さんといえば箱庭療法なんだなと、何冊か著書を読んで印象づいてきた。


患者に箱庭を作らせ、できた箱庭からその人の精神状態やおかれている状況を読み取るという、変わったアプローチの療法なのだけど、その抽象度が鍵なのだという。


アメリカでは臨床心理のケアを行う際、言葉を用いた論理的なアプローチで患者の精神状況などをとことん分析しようとする傾向があるらしいが、言葉を用いて自分の症状を認知させるようなやりかたを取ると、患者としては逆に傷ついてしまうことがあるらしい。


そこで箱庭を用いた分析アプローチを利用することで、ことを用いずに具体的に患者の精神状況を把握することができるという。


詳細を記載されているだろうからないが、これはやはり経験則に頼るところも大きい治療法なのではないかと察する。


<人間の暴力性について>


村上春樹は戦争以降、日本は平和憲法などを用いて徹底的に暴力性を排除し、その結果として現代人は自分の内に潜む暴力性に気づかず成熟し、その暴力性が顔を出した時に悲惨な結果になってしまうような事件などが怒っている状況について言及していた。


自分はお笑いがとても好きで、中でもサイコパスが現れるよな内容のものを好んだりする傾向があるのだけど、これはここでいう暴力性に対する認知のことなのだなぁと勝手に納得した(笑)


この本は、現代人が生きるにあたって突きつけられる巨大なトピックをかなり本質に近いところで扱っている。


河合さんも村上さんも、職業的にも人柄的にもそこに対して
バシッと答えるようなことはしないけれど、やはりかなり鋭い目線を持っていて、そういうことを認識しておくと、どういうことに自分が悩んでいるのか、突き当たるかという状況に対してメタ認知できる状態になるので、かなり良いと思った。


河合隼雄先生は人生の師匠ですね。





さて、日曜日なのだが僕は平日よりも日曜日の方が忙しいな。平日に溜めた家事を一掃しないといけないために、一日中バタバタしている。



今日は比較的時間が有る方だったから


「マインドハンター」を最後まで見た。


どうも今日は、これに引っ張られて精神状態が微妙にダウナーなんだよ。



「マインドハンター」の詳細はNetflixを契約して最後まで見てもらいたんだけど、「精神的にクル」作品です。FBIの行動科学班でプロファイリングを開発するまでを辿ったドラマ作品なんだけど、連続殺人犯をインタビューして、その内面の襞を分析する。



こういうFBIの行動捜査班を取り扱った作品では「羊たちの沈黙」のハンニバル・レクター博士みたいなモンスターを想像するかもしれないけど、マインドハンターの中のシリアルキラー達には生まれの中で異常を抱える他ない理由がある。


でもって、主人公のホールデンはそういうサイコパスの心理を理解して、行動を予測できるようになるまでプロファイリングを極めていく。



だけど、そうやってプロファイリングが完成したのにも関わらず、行動科学班の組織の中の立場としてはホールデンの強引な捜査方法のせいで窮地に追い込まれていく。仕事の上でもプライベートでもどんどん追い詰められていく。



ネタバレになるから最後までは語らないけど、心理学を学ぶものが陥りがちな境地をよく描写しているなと思う。陳腐かもしれないが、一言で表すとニーチェの「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」が適切だろう。



主人公のホールデンは作品の冒頭では人質救出作戦の犯人まで救おうとしたんだけど作戦は失敗。犯人は銃殺されてしまう。ホールデンはそれに胸を痛めて新しい捜査技法の開発を思い立つ。だが、ホールデンがプロファイリングを極めた後は犯人の心理を利用して嵌めて相手を絶望のどん底まで陥れる。わかりやすいぐらいの暗黒落ちをしている。



心理学ってのは人間のこころを取り扱った学問なんだけど、理論を知っていれば使えるって学問でもないのよ。そのパターンは確かに統計的な傾向としてあるんだけど、どの様に表出するかは属人性に左右される。理論通りにスマートに行動を全部予測できるのは推理小説の名探偵ぐらいだ。実際は泥臭く、その対象の内面に深く共感しながら何を思っているのか想像するしか無い。殺人犯の行動を推察出来るようになるということは、殺人犯の心情に共感できるってことだ。



あと、マインドハンターの結論は、プロファイリングでは人のすべてを理解できない、みたいな内容だよ。結局の所、ホールデンの行動は全部、エド・ケンパーの手のひらで踊らされていたみたいな結末。今までホールデンが積み上げた理論が全部否定されて、ケンパーに心を折られて終了。



まぁいいや、ずいぶんと気分が沈み込んでしまって今日はブログ執筆に影響が出るぐらい憂鬱なんだよ。ここまで胸糞なのも珍しいかもしれない。






河合隼雄先生って、どんな先生でしたか?
私にとっては、教科書に引用されている神様です。



河合隼雄先生は僕にとっても人生の師匠みたいな存在の人です。僕は高校時代に河合先生の著作を読んだおかげで、


大学の専攻は心理カウンセリングを選んだという経緯があります。



河合先生は文化省の長官を勤めているときも、


カウンセリング受けることを止めなかったって人です。金銭的に困っている人からは少額だけ取るようにしてカウンセリングを続けていたらしいです。膨大なカウンセリング症例集を残しているんですけど、まさしく達人の境地でしたね。禅問答みたいでその時はよくわからない受け答えをしているんですけど、カウンセリングが後半に入ってクライアントの深層心理の掘り下げが深くなってきた所で河合先生はその象徴を言い当てていることが分かるってケースがありました。どれほど人間への理解が深ければあんなことが出来るんだろうって人間の器が規格外の人でしたね。



日本の臨床心理学ってのは河合先生が形を整えたんじゃないかなーってぐらい、影響が強い人ですよね。元々河合先生は数学をしようとしていたらしいんですけど、ユング心理学を知ってスイスの研究所に渡る。そこで分析を受けてきて日本に帰ってくる。ユング心理学はぶっちゃけ、オカルト色が強くて実戦に向かないジャンルなんですけど、それを河合先生が論理的にまとめ上げて日本で広めたって経緯があります。河合先生といえば箱庭療法なんですけど、数学をやってた為、ユング心理学は論理思考が強くて最初は受け入れ難かったらしいです。だけど、日本で河合先生の理論が広く取り入れられたのは、その河合先生の理詰めの性格で論理構築がかっちりしてたためだと言われています。



まー、僕は心理学は学んだんだけど、実戦の臨床現場が怖くて逃げて全くカウンセラーとは別ジャンルのプログラマになったみたいな経緯を持っている。だから、僕が心理学を語っちゃいけない気もするね。でも、今からでもピアカウンセラーとかやってみたいみたいな野望もあるんだ。僕の本質的な所で人を助けたりする仕事が好きだったりってのはあるんで、今からでもカウンセラーの勉強は始めたい。



世に出回っている心理学へのイメージについて。










 物語って何だろうか。生きるのが物語をつくるって本当なんだろうか。この本のタイトルを見たときに、そんな問いが頭に浮かんだ‥。そして考えてみたら、思い出す過去も物語になっているし、夢見る未来だって物語そのものだ。現在のことだって、やはり物語に変換して、私たちは理解をしているように思える。どうやら私たちは物語から逃げられないようだ。だとすれば、この本のテーマは、人生の中で大切なただ一つの事だと言えるに違いない。それは、誰もが毎日いやでも「生きる」からである。生きるためのヒントだと思ったところをいくつか紹介したい。




○ やさしさの根本は死ぬ自覚から


小川「‥その魂と魂を触れあわせるような人間関係が作ろうというとき、大事なのは、お互い限りある人生なんだ、必ず死ぬもの同士なんだという一点を共有しあっていることだと先生もお書きになっていますね」


河合「やさしさの根本は死ぬ自覚だと書いています。やっぱりお互い死んでゆくということが分かっていたら、大分違います。まあ大体忘れているんですよ。みんなね」(p30)




 人は人との関わりなしでは生きられない。しかし、その関わりがややこしいし、むずかしい。人と人とのコミュニケーションは、誤解が当たり前だといえるぐらいに、いつもちぐはぐになる。この対談の中で、人が理解し合えるのは、こんな場合だろうと話し合っているところである。


 もしかしたら、この人とはもう会えない、今生の別れだと思えれば、私もその人に対してやさしくなれると思う。意固地にならずに、相手の言葉をすんなりと受け止めようとするだろう。実際、私たちは死と隣接しているし、先のことなどわかりはしない。だいたいそんなことを考えていたら生きていけない。でも、ふと思った。「どうせ私もあなたもそのうち、死んでしまうんやで」なんて言ったら、熱くなっているのが急にばからしくならないだろうか。少なくとも、自分だけでもそんな視点を持てたら、相手に今よりもやさしくなれるだろう。




○ 無言でさえ、その場に一緒ならばいい!


小川「この場合、意味のあることをやり取りするのが重要ではなく、その子のいる世界の内側にとどまる、ということが大切になっているですね」


河合「黙ったままちゃんといられてたら、カウンセリングは1時間で終わりです。でも人間って、よっぽどの人でないかぎり、黙ったまま1分もいられないです。黙っていれるなら黙っている方がいいけど、その間『今日は昼飯はきつねにしようかな』なんて(笑)、心がヨソに行っているとしたら、これは絶対駄目です」


小川「患者さんはそれを感じ取ることができるのですか」


河合「絶対わかります。心がそこにいて黙っていられるのだったら、なんぼ黙っていてもいいです。ところが黙っているうちにちょっといらついてきたり、心がヨソへ行きかけたなと思ったら、やっぱり何か言わなくちゃならない。ものを言ったらそこにいられるわけです。そういう時に言うのが、『いやぁ、高校生一年ねえ』です。その人の世界から出ない。そうしているうちに普通はだいたい乗ってくる。『うーん、とりあえずね』て言ってると、もうしめたものです」



河合「真っ暗な中誰かもわからない男が忍び込んできて、バッと関係をもつわけだから、女性にしてみれば、死の体験に近い、まさに死を共にしたという感じじゃないかと僕は思っています。そこから出発して、心の方は後でだんだん結ばれていくわけですね」(p82~83)




 話は源氏物語になる。そこでの男女の関係について話は展開していく。ここでも顔を出してくるのは、”死”である。現代の私たちには想像だにできないが、源氏物語の時代のときは、


もし、死を感じるような奴がいたら、サイコパスのようなあぶない奴でしかない。私は映画の『氷の微笑』を思い出してしまった。









第458歩『カウンセリングを語る(上)(下)』河合隼雄著、講談社α文庫



https://minomawari.jp/2017/10/


身の回りの観測問題
自分のメガネで世界を見よう



無意識とは何か:河合隼雄 ? 無意識の構造
自分の中には、自分ではコントロールできない部分がある。例えば、体温調節、心臓の鼓動や新陳代謝だ。これらは、自分を維持して自分でありつづけるために不可欠ではあるけれども、自分ではコントロールできない体の必須機能である。


一方、心の中にも自分がコントロールできない部分がある。それが無意識だ。無意識が広く認識されてきたのは比較的最近で、19世紀末のフロイト以降である。無意識は自分の意識や行動に大きな影響を与えているが、日々の生活の中でそれを認識することは難しい。




この本「河合隼雄の無意識の構造」では、無意識とは何か、そして無意識が自分に与える影響について、フロイト以降に発展した精神医学や心理学の中で知られていることを紹介している。


フロイトは精神病の原因を探す過程において無意識を発見した。そして、その後にこの試みは精神分析学として発展し、さらに後には分化していった。筆者は、フロイトの弟子で、後に袂を分かったユング派に属するらしい。


さて、無意識とはなんなのか。なぜそんなものを考える必要があるのだろうか。


転んで怪我したとき、痛みを感じる。この場合、痛みの原因は明確である。転んで、膝を擦りむいたからだ。このような原因が明確な痛みや不調は起こった時に対処できるし、一度学習すれば、次回からはその原因を回避するために予防することができる。


しかし、特に原因は分からないが体に不調が現れることがある。例えば、特に外傷が無いのにいきなり耳が聞こえなくなったり、声が出なくなったりする。もしくは気落ちして、行動できなくなったりする。


フロイトはこういう時には、体ではなく心に傷を負っているのだと考えた。所謂、心的外傷(トラウマ)である。例えば、性被害にあった人や戦争に行った兵士が感じるPTSDが特に有名だ。トラウマは直接意識すると苦しい葛藤に苛まれるので、受けた直後に抑圧され、表面上は意識しなくなる。


しかし、それは完全に忘れ去られているわけではない。無意識の領域に押し込まれているだけだ。従って、何かの拍子に体や意識に影響を与えて、不調として現れてくる。トラウマを解消するためには、無意識を意識して、そこに何があるのかを見ることが重要である。


これだけだと無意識は体の不調をもたらす原因で、無い方がよいと感じるかもしれない。しかし、そうではない。無意識はトラウマのような劇的な出来事のみを溜め込んでいる場所ではなく、むしろ、自分に成長をもたらしてくれる源泉でもあるのだ。


前にも述べたが、自分は「成長することが人間に幸せをもたらしてくれる」と考えている。大人になって体の成長は止まっても、心や社会的な成長は一生続けることができる。体を成長させるためには、ご飯をよく食べてよく寝るという方法が一般的に有効だ。一方、心や社会的な成長は一般的な方法がないように思える。つまり、これをやりさえすればよいというテクニックはないということだ。


何をもって成長だと感じるかも個人個人で違うわけで、一般的な方法があると考える方が無理がある。しかし、全く指針がないわけでもない。例えば、社会的な成長のためには、創造的仕事がとても有効である。


創造的仕事の本質は何か。それは一見相反するものを調和させたり、その調和を発見したりすることである。その時、相反するものを意識のみで捉えて合理的に考えていても、一向に調和しないし、新しい調和を発見することもできない。調和させるためには、無意識の助けを必要とするのである。


この本では、具体的に自分の無意識を意識するための方法として、夢を記録することを挙げている。ユング派は夢の中に無意識が漏れ出していると考えているのが理由のようだ。その際に意識すべきなのは、夢のなかのシンボルやイメージやストーリーである。これらを通して、自分の中に新しい知恵が届き、その結果として創造的な仕事ができる。


実際にユングはさまざまな人の夢を分析したが、そこで分かったことは、共通のシンボルが出てくるという事実だ。夢に共通のシンボルが現れることから、ユングは人間には二種類の無意識があると考えた。個人的無意識と普遍的無意識である。普遍的無意識の概念は西洋のイデアに近く、合理的に解釈できる余地を残している。そこで、ユングはそれらに名前をつけた。例えば、グレートマザー・アニマ・アニムス等々である。ここでは、これらについて一々言及しないが、気になる人は本を読んでみてほしい。


また、自分自身を調和させるためにも無意識が重要な役割を果たす。人は社会の中で生きているので、自分の態度や考え方を社会的に望ましいとされるものに、ある程度は無意識的に合わせている。しかし、一般的にいって、その外向けの態度と自分の内部にある規範や考え方が、完全に調和していることは少ない。皆ある程度の葛藤をかかえている。その葛藤が大きくなると、うつ病などの問題が生じる。逆に、社会的要請と内部からの声を調和させて発展的に解消できれば、大きな喜びを感じることもできる。


特に現在のように、社会構造が大きく変化しているときには、そのような葛藤が生じることが多い。今までは意識せずに調和できていたことでも、再び考える必要が出てくる。自分の無意識を覗き込むのは面倒な作業で、一見すると目に見える発展がない時間が続く。今のような目に見える結果が重要視される時代では、特に後回しにされがちである。しかし、大きく成長するためには必須である。急がば回れ。こういう時だからこそ、無意識に注目していきたい。






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